2月11日、ブルーエゴナクという北九州にあるという劇団の高松の商店街での公演「まほうは消えない」を見に行ってきました。(例によって長文失礼)

商店街は程々の人混みでしたが、病気休暇を経た2ヶ月ぶりの町、劇は(多少予想はしていましたが)商店街に散らばった老舗店舗の門前を巡りながら、その店を舞台に少しずつストーリーが進行するというものでした。杖を突き突き次の舞台に向かうというのも良いリハビリになるかもと思って臨みましたが、後半はさすがに疲れてきて、その雰囲気を察してくれたスタッフの植田さんがいすを貸してくれたおかげで快適に鑑賞することができました。しかしこれ、杖に腕をもたれさせ、観客の中で一人だけ椅子に座って(しかも黒ずくめ)というのは、図らずも偉い評論家かそれともパトロンかという妙な大物感を醸し出してしまうおそれがあり、ちょっとそわそわ。

劇を見ながら探索モードの心で町を歩くと、先進的なアーケード街として全国的に有名な商店街の中に、ひょいひょいと昭和のディスプレイが残っているのに気づいてびっくりしました。高校時代も毎日通学していた通りなのに、ちっとも気づきませんでした。園芸店の店先にごく普通に並べられていた多肉植物が、ちょっと目にしないようなレアキャラ揃いであったのに気づき、幕間であることを忘れる瞬間も。

舞台のない、路上パフォーマンス的な上演は、一方で耳がもげそうな寒さをガマンして見る(見てるだけならまだいいけど演ってる方はさぞ大変だろう)みたいなことも起こりますが、喫茶店の前で上演中の役者の脇をすり抜けてお客さんが店に入っていったり、三豚では店内でお茶をしていた役者が急に演技を始めて店内が騒然となるなど、ひょいひょいと予想外のできごとが挟み込まれるのもおもしろいものでした。

しかも語られる物語も、商店街を舞台にして、若かりし頃の人生模様の思い出数珠つなぎというもの。劇と町との境界があいまい、というよりむしろ商店街のささやかな日常生活の一つにスポットライトが当てられてそれを見ている、という雰囲気でした。たとえていうならNHK「ドキュメント72時間」で切り取ろうとしているものに近いかもしれません。

あいまいな舞台の代わりに日常空間との境界を作っているものが「まほう」の存在で、これによってローファンタジーの物語作品になっているのですが、この設定がなければどうなってしまうのか。劇でもなく役者でもなく、単なる通行人が大声で会話をしている、という単なる一風景の中に溶けてしまうのかどうなのか。味わってみたくもあり、それはやっぱり危険なものかもしれず。その境界の内と外をさぬき弁でつなげている中さんは難しい役どころを演じています。

(図らずも大物席に座ってしまい、そわそわしていたからかもしれませんが)、劇をしている役者達とその前で集まって観劇している我々の集まりを、何も知らずに目撃した商店街の通行人にとっては、観客も劇の空間の一部、エキストラのような存在に見えるんじゃないかと思ったりもしました。劇は歌と踊りでフィナーレを迎えるのですが、その場面では、できることなら我々観客も舞台を背にして通行人に向かい、役者達と一緒に踊りを披露してみたいなという、変な感覚に陥りました。役者達と一緒になって通行人から拍手をもらってみたいような。これも境界のあいまいさのなせる技でしょうか。

終演直後に、劇団ブルーエゴナクの代表で脚本・演出も手がけられた穴迫信一さんと少し話せる瞬間もあったのですが、①病休明けにて初対面の人と話すのが実に2ヶ月ぶり、②劇中で穴迫さんが演じた登場人物のキャラクターと穴迫さん本人のキャラクターのギャップをどうとらえて話したらいいのか分からなくなった、という理由ではげしく狼狽してしまって、情けないことにちっとも上手くしゃべることができませんでした。残念至極。これも境界のあいまいさのせいにしてしまいたいところです。

まほうは消えない_高松_表

エゴナク01

エゴナク02

エゴナク03

エゴナク04