我が同級生シアター・デザイン・カンパニーの植田さんに触発されて、最近演劇をよく見るようになりました。この前は四国文理大学のスタジオノトスにて、「アンドロイド演劇『さようなら』とロボットワークショップ」を鑑賞してきました。大阪大学の石黒浩先生が開発したアンドロイドと人間の役者による演劇を鑑賞した後、平田オリザさんと石黒研究室のエンジニアさんによるワークショップがあるという、実験的な要素の強い演劇でした。

登場したアンドロイドは、エアコンプレッサーで動く、限りなく人間を模した「ジェミノイド」と言われるもので、初めて目にすることができました。ちなみにエアコンプレッサーのロボットと言えば学天則、ジェミノイドと言えば同じ石黒研のマツコロイドなどが有名ですね。

「うわっ!!人かと思ったらアンドロイドやったわ!!」という驚きをもたらそうという演劇ではありません。劇中でアンドロイドは、人の話し相手になるという目的で作られたアンドロイドの役を当てられて、アンドロイドを演じています。

 このアンドロイド、ぶっちゃけたことを言えば、人と見分けがつかないわけではありません。先にカバー写真にアップしてみましたが、見た目はまだまだ「動く蝋人形」に近い。むしろ人形浄瑠璃の方が可動域が大きく、人形繰りの心憎い技法の蓄積が深い分もあってか、劇に入り込んだときの「だまされ方」も大きい印象があります。人形浄瑠璃はじっとしているとあからさまに「人形」である物体が、まさしく人間の動きをしている様子を見た瞬間、「うわっ!」という衝撃とともに、「これは生きているかも」と思わされるモードに入り込んでしまう。一方アンドロイドはもともと人間そっくりであるために、見た人は無意識に人間と違うところを注目しがちになってしまうので、だいぶ損をしているところもあるかもしれません。

 今回の演劇は、「このアンドロイドがどれだけ人間らしく心を持った存在として感じられるか」ということが主眼となり、物語はこのアンドロイドを様々な状況の中に置いてみるための仕掛けとして用いられています。

能動的に「見る」ことでは掴み取ることができず、周辺視野にちらりと「見える」ことによって初めて関知することができる、そんな在り方をする感覚があります※。アンドロイドを見て、「あらこれは人かしら?」と思う感覚というのはまさにそういったものでしょう。けれどもそういう感覚は錯覚にも似ており、あれは何だ?と直視することでたちまち逃げ去っていってしまいます。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というような感じで、つい分析をしてしまうことで「人かしら?」という感覚は失われてしまいます。(※古東哲明『在ることの不思議』 なつかしや)

今回の実験的な演劇は、そのような微かなクオリアそのものを主題としてまな板に上げようとする試みであり、大変難しい作業だっただろうと思います。(その雰囲気に当てられて、観客席も密やかなムードに包まれていました。)

 そのようないきさつで、アンドロイドが劇を演じている最中よりもむしろ、注目されていないとき、よく見えないときには、不意に人間と見まがうような瞬間がありました。ワークショップの話をしているオリザさんの後ろで、かすかに瞬きをしたり体を揺らしたりしながら佇んでいるとき。オリザさんの話を引き取って、「そうそう、それは・・・」と話し始めそうな、不思議な存在感を発揮していました。また、一幕と二幕の間、照明がすうっと落ちてアンドロイドの顔だけが暗闇に浮かび上がっているとき。おそらく意図的な演出だと思いますが、まさしく能面のようでした。

 この劇を見ながら想像したことは、この人間そっくりなアンドロイドの代わりに、例えばソフトバンクのペッパーがいて、同じ台詞をしゃべったらどうなるだろうかということです。おそらく普通に演劇が成立するように思います。感じ方は多少異なってくるでしょうが。場合によればペッパーの方が先述の「人形浄瑠璃効果」によって、より強く「心ある存在」と感じるかもしれません。

 考えてみると、人間や動物ではないものに「心」を感じるのは、リアルな人間の姿をしていることは必要条件ではないと思われます。健気に働くルンバなどは全く人型ではないですが、見ているうちに紛れもなく「心」を感じる。それどころか二次元世界のアニメキャラや、一次元のリニアな表現である小説で描かれた人物にも「心」を感じています。さらに日本人はアミニズムである神道に馴染んでいるために特にそうなのかもしれませんが、山川草木のような人手によらないものに人格を感じたり、言葉のような記号にも言霊という意志を感じたりします。人工衛星はやぶさの艱難辛苦の旅路など、涙なくしては語れないありさま(ちょっとおおげさかな?)。ありとあらゆるものに私たちは「心」を感じて生きています。

 そのような多種多様なものに私たちが「心」を感じるということは、そう感じ始めるトリガーは、実は複数の種類があるのではないかと思います。今回のアンドロイドのように形態そのものからそう感じさせられる、ルンバのように人間くさい動きや振る舞いをする、物語の進行につれて泣き笑いをする、草木のように生命があって生まれて育って死んだりする、などなど。

 今回の演劇においてアンドロイドに「心」を感じる理由は、それが人間そっくりだから、というよりもむしろ、人間である役者がそのアンドロイドを「心」がある存在として承認し取り扱っているという状況があるから、観客もそのように感じさせられている、ということだと思います。思い起こせば同じ平田オリザさんの『御前会議』だったかには、物言わぬ人形が人物の1人として登場していましたが、それと同じ感じです。みんながそれを「心」があるものとして扱うから、自分もそれに「心」を感じる。思わず同調させられてしまう。これは「心」を感じさせるトリガーたちの中でもかなり強力なものではないかと思います。

 劇中では、人間の役者がアンドロイドに対して、話し相手として、アドバイザーとして、また、モノとして、救い主として、というように多様な接し方をします。そしてそのたびにアンドロイドの中に「心」が見え隠れします。その雰囲気を味わうのがこの演劇の味わいだろうかと思いました。

 ずいぶん長くなってしまいましたがもうちょっとだけ。

 劇中で私が最もアンドロイドに「心」を感じて奇妙な気持ちになったのは、「壊れて同じ詩をループしている」という時のアンドロイド。何しろ壊れているから次に何を言い出すかわからない。そんな状態に陥ったアンドロイドの振る舞いが、例えば「認知症を発症して延々と同じ話をするご老人」を突然に彷彿とさせて、ドキッとしました。

 「心」を感じる要件として、一方で「ブラックボックスであると感じる」ということがあるのではないかと思います。インプットに対してどのようなアウトプットをするのかが予見可能な物にはあまり「心」を感じない。例えば、電卓を見た場合、計算式を入力したら正確な演算結果を出してくるのに決まっている。そんな物にはとくに「心」を感じない。ところが、とある電卓が、時々妙に答えを出すのに手間取ったり、出た答えを見てみると、「23?」とか、自信なさそうに表示してあったりすると、途端に人間くさくなってきます。「こんな面倒なことを聞いてすまんのう」とか、「あともう少しだからガンバレー」とか言いたくなる。(大事な計算は任せられなくなるとは思いますが・・・)

 とっても頭が良くて、周りの人の言動を読んで先回りをするような策士のような人は、他人のことをあまりブラックボックスと思っていないであろうから、すると頭の良い人は他人に「心」を感じていないのではなかろうかという、ちょっと恐ろしい空想をしてみたりもします。

 そういうわけで、今回のまとめとしては、

「心とは、ブラックボックスを認識する一つの様式である」

ということになるでしょうかね?

言っておきながら、今ひとつよくわかりませんが。

しかし、アンドロイドの「心」は、実はそれを見ている人の中に作られる。

追伸
しつこすぎるので指摘するだけですが、他にも「詩の朗読による憑依状態」とか(聞き逃したので不確かですが)「原発事故によるカタストロフィ的な状況設定」とか、いろいろと気になることが凝縮された劇でした。
(おしまい)

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