演劇の魅力って何だろう?それって、観る側と演じる側でも多分に違う。演劇こそ、それほど作ったことはないけれど、ぼくは映画を作ったり、映像を作ったり、絵を描いたり、詩を書いたり、コラムを書いたり、どちらかというと作る側の人間に当たるので、そちらから云えることなら何かあるかもしれない。そんなスタンスで、ここのコラムも引き受けている。

最初に観た演劇が何だったか、イマイチ思い出せない。ただ、小学校低学年の頃に演じた記憶がはっきりとある。学芸会でやった「浦島太郎」だ。しかも、ぼくは主役の太郎を演じた。舞台に上がりたいなんてこれっぽっちも思わなかったし、むしろ目立つのが何よりも苦手だったから、この配役は先生の意向だったのかな?評判がどうだったかなんて、一切覚えてない。玉手箱の煙に巻かれるアクションが妙にわざとらしくて(先生の演出)、正直やりたくないと思ってた。そこだけははっきり覚えてる。

小学校中学年の学芸会でも、またお芝居に関わることがあった。しかし、演じることに辟易したぼくは、前回の反省を踏まえ舞台に上がらなくて済む裏方を真っ先に希望した。しかも、ぼくが提案したのはお芝居のサウンドトラックだ。アニメのサウンドトラックをカセットテープにダビングして、お話の展開にふさわしい場所で流した。これも、評判は一切覚えてない。演目すら覚えてない。ただ、他のクラスがこだわらなかったサウンドトラックを、最初に取り入れたのはぼくだった。

小学校高学年では、ついに演出をやった。演目は「3匹のこぶた」。自ら脚本を書いて、クラスメイトに演じてもらった。ぼくが結構本気モードだったので、演じる側の友だちもちゃんとついて来てくれた。クライマックスでタイミングを間違える人がいたけれど、何とかカタチにはなった。ぼくがいちばん『やりがい』を感じたのは、やはり、演出家だった。

ここで、本題の「てとあし」である。

今回の演目は、会場が途中で変更になった。様々な漂流物が流れ着く海辺のお話ということもあるのか、当初は彼らがホームグラウンドにしている骨董屋さんのギャラリーでやる予定だった。しかし、店主の体調不良でお店は休業。急遽、仕切り直しを迫られる。その後に決まったのが、公共施設の和室だ。これが案外、会場として面白かった。

客席よりも舞台が広々と取られたお座敷空間。あえて襖を開けきらず、視界を遮った演出。床の間の凸凹に映し出される海辺の映像。客席後方にある押し入れにも、登場人物が潜んでいる。そこいら中に散らばるオブジェは、海辺に流れ着いたものたち。音楽はなく、鳥の声や波の音、飛行機が飛び去る音なんかが、複数に配置されたスピーカーから立体的に聴こえる。

公演時間は20分。…ほんとに?もっと長く感じたのは何故だろう?

「てとあし」を主宰する白川のぞみさんとは、機会がある毎にお話しをする。あえて地域でアートや演劇を志すもの同志(…という解釈なのですが、実際のところ白川さんはどうなんだろう?)、話題は尽きない。気がつくと、午後の間じゅうずっとおしゃべりしていたということもあった。彼女の中で静かに燃える創作の火は、ぼくもクリエイタのひとりとして大いに共感するところである。

また彼女は、会場を選ばない。…いや、選ばないのではない。通常の演劇で使いそうな箱を、あえて使わないのだろう。ぼくもまさにそう。『場所』から受けるインスピレーションって、オリジナル作品には如実に顕われるから。そういうところを楽しむことのできる人こそ、地方でのオリジナル公演を重ねてほしい。

今作「ドリフトライン」には、5人の登場人物が出てくる。ただ無言で、海辺を徘徊するだけの青年。砂に埋もれて、隠れている少女。波に揺られながら、たゆたう少女。声だけ聞こえる男。流れ着いたものの間で、翻弄される少女。何度もくり返す会話の台詞は、波のリズムのよう。それは気が遠くなるほどくり返される、海辺の音楽。

ブルーシートに包まれたものに、不穏な感情を隠せない主人公。「あれは、人間の死体ではないのか?」声だけ聞こえる男とのやりとりで、そうとしか考えられない自分の先入観に辟易する。最後の最後、自らブルーシートを剥ぐ。そこに何が包まれていたのか、それは会場に来た人だけが知りうること。

そして、ぼくのコラムはふりだしに戻る。演劇の魅力とは何か?

たぶん、こうだ。ひとつやふたつの言葉では語りきれない空気感を、作品全体で語る。台詞のすき間からこぼれ落ちたものを、言葉ではない要素で再構成する。それらの集合体で成立させる世界の作り直し。世界のほつれをつくろうための演劇。『わたし』の再構築。そんなところだろうか?

次回の「てとあし」公演も、楽しみにしています。

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