12ya

ぼくは、演劇畑の人間ではない。だから正直、シェイクスピアの魅力がイマイチ解らないでいる。心から「面白い!」と思う作品に出合ったことがない。どの話も、時代遅れな抑圧がストーリーの要にあって、50年前の日本ならまだしも、この現代においては「かつてはそんな時代でした。」という歴史的な背景を知らなければ、感情移入しにくい。「今回のお話も、そんなストーリーのひとつかしら」と思って、ある種の心積もりをして会場に入った。しかし、物語が進むにつれ、素直に「面白い!」と思える自分があった。それは、シェイクスピアの作品で初めての感覚だった。

趣向を凝らした、飽きさせない演出も確かにあった。そして、四国学院大学の卒業していく学生たちへのはなむけとなる公演というところで、演者がリラックスしていたこともあったろう。しかし、その辺を抜きにしても、単純に面白かった。

シェイクスピアの作品は、これまでもこれからも、世界中で数えきれないほど再演されているのだから、その普遍性は多くの人が証明するところである。それを否定するつもりはさらさらない。しかし、学生が演じるには無理があると思っていたフシがある。気がふれてしまうほどの嫉妬だとか、命を賭けても愛を貫くことだとか、国を敵に回しても叶えたい野望だとか、シェイクスピアが描くそんな感情は、社会に出て荒波に挫けそうになってからやっと、身に沁みて解かるのではないだろうか。

そこで、今回の「十二夜」である。西村氏の得意とする、学生を学生のままに演出する手法は、今回も冴えていた。しかし、今回の演目は、それがさらに活きたように思う。女性のヴァイオラが、男性の振りをしてオーシーノ公爵に仕える。そうするうちに、恋心を抱く。自分自身が何者かはっきり自覚のないまま恋人と付き合い、そのうちほんとうの自分を見出すというのは、誰もが学生の頃に経験するのではないか。また、オリヴィアの執事マルヴォーリオが、自らの恋に理性を失い、いつしか独りよがりになって嘲笑を受ける様は、恋に恋しがちな学生時代に経験する人も多いだろう。思い出したくもない自らの黒歴史として。そういう幾つかの要素が、学生が演じることに説得力を持たせた。そういう作品ではないかしら。

演者全員の乱痴気騒ぎが掃けた後、ウェディングドレス姿のヴァイオラが起き上がる。寄る辺なく辺りをふらつき、ぼんやりと空中を見る。何とも、曰くあり気なエピローグ。原作では、道化がその役割を担うらしい。それが今回は、ヴァイオラに担わされた。この作品で西村氏が意図したことは、このラストシーンにすべて託されている。何を表しているか、こじつけて書こうと思えば幾らでも書ける。しかし、それを言葉にするのは野暮と云うものだ。観た人それぞれが、それぞれに受け取ればいい。

とにもかくにも、十二夜。願わくば、学生たちの最後の公演に恒例の演目として、これからも毎年取り上げて欲しい。そう考える人間は、ぼくだけではあるまい。よいお芝居を観させていただきました。どうもありがとう。